愛と革命を…ver3

恋愛コンサル(自称)事例解説 他仏教・歴史等

(´Д`;)日本組織の風土病 責任の空気化、恐怖による集団主義

今回は前回、前々回等における太平洋戦争中の軍組織の責任システムと今の日本政府との類似性、継続性はいかなる要因にて形成されたのか?という課題を述べたいと思います。



まず前提に以下の概念を押さえておく必要がありますね。

ethos
エートスは、住み慣れた場所や故郷のことであり、そこから派生する集団が 遵守する慣習や慣行であり、そのような慣習によって社会の成員によっ て、共有されている意識や実践のことをさす。エートスは集合的心情は、その当該文化の人たちの情動経験などというふうにも訳される。

端的に言うと、特定地域の文化慣習、精神的考え方の集合体であり、人々の意思決定や行動はこれに依る。

これはマックス・ウェーバーが提唱した概念で

西洋近代化の過程で、重要な要素になりました。


さて、日本においてはどうでしょうか?
ここで司馬遼太郎氏に登場していただきます。


◆ヤクニン

「世に棲む日日」は幕末期の吉田松陰高杉晋作を主人公とした、長州藩の動向を描いてます。

その中で幕末の英国外交官アーネスト・サトウからみた、典型的な江戸時代の役人が現れます。
ヤクニンという日本語はこの当時、有名な国際語になっていました。
さて、このヤクニン
「極度に事なかれで、何事も自分の責任で決定したがらず、漠然と「上司」という言葉を使い明快な回答を避ける」

では上司とかけあおう、と外国人が詰めていくと役人は言を左右し、やがて「上司」とは責任と姓名をもった単独人ではなく、「老中会議」とかのような煙のような存在で、生身の実体がないことに気づく。

つまり、幕末期からもこの責任のあいまいな行政システムはあったようです。

司馬遼太郎氏は余談で
太平洋戦争における実質的な責任者もよくわからない。誰が開戦のボタンを押したのすらわからない。幕末期の外交官達が驚いたように、東京裁判における各国の判事達も驚かざるを得なかった。とあります。


上記は幕末期~太平洋戦争あたりの話ですが、ではこのethosと言っていいのかわからない、日本の組織風土を、改めて司馬遼太郎氏に出てきてもらい、解釈の手助けをしてもらいましょう。

話は遡り江戸幕府創始者徳川家康の話
「覇王の家」です。

「覇王の家」は三河から出た徳川武士団が天下を制するにあたり、この三河武士団が江戸時代の官僚制風土を形成したことを指摘しております。

◆独創性を恐れ、かつ没個性的な組織
覇王の家では、
「家康は独創を激しく恐れた」
「後年、家康は死ぬ直前に、子の秀忠や幕府の閣僚たちに遺言としてのこしたのは、徳川幕府の制度は三河松平の小豪族だったころからの家政の制度にとおりにせよ、といい・・」
徳川幕府は進歩と独創を最大の悪とし、三百年間、それを抑圧しつづけた。」
「異は独創である、異を立ててはならないというのが徳川体制の一大政治思想であった。」
「また、個人の功名が讃えられた功利的な近世戦国武士のなかで、徳川武士団はより忠誠集団であった。」
と織田軍団とかとの対比で述べています。



◆責任体制の不明瞭化
また、家康特有の意思決定において
「秀吉との決戦には、かれの家来というよりは領国の人々の総意がそれを決めた、家康としてはその総意を執行すべく自分の身を犠牲にするのである、というふうに物事を持ってゆき、人々を納得させるのである。~このやりかたは家康が私淑してる武田信玄ですら採らなかった。」
ここで着目すべきは「総意」というワードです。
これなら誰の責任が不明確、不明瞭になります。
そして、ずるいことにみんな責任逃れが出きるのです(^_^;)


◆恐怖心からの内部統一性
再度、徳川武士団の特徴として
三河衆はなるほど類がないほど統一がとれていたが、それだけに閉鎖的であり、外の風を警戒した、この集団が天下の権を握ったとき、日本国そのものを三河的世界と観じ、外来文化を拒否するというようなものになった」

今日の日本人の恐怖遺伝子がここに極まったような表現ですが、妥当だと思います。


◆ethos化
「覇王の家」での家康の意思決定における「総意」。これは責任の主体、所在があいまいかつ不明確であります。
また、それに従う三河武士団の集団主義思考は我々日本人のDNAに刻みこまれている、あるいはethos化している可能性が大きいように思われるます。

凡そ組織とか国家とかはある程度のダイナミズムを持ち合わせているんですが、日本の組織の場合、硬直化しやすく、危機において対応不可能なレベルに成り下がるようです。


ま、我々日本人としてこういうのっていかが思いますか?

まー他国の組織もこういのはあるんでしょうが。